Thursday, October 28, 2010

リベラルな多文化主義の仮面をかぶった、人間の顔をした昔ながらの野蛮:欧州全域にわたり、極右の政治は「理にかなった」反移民政策の必要性を説き、我々全員を感化/スラヴォイ・ジジェク著

英ガ―ディアン紙:2010年10月3日(日)


フランスのサルコジ政権がロマを追放したり、ドイツのメルケル首相が「多文化主義政策の失敗」を語ったり、カネとものが行き交うグローバル化の時代に「移民」が政治の焦点として熱い課題となっています。そんな折り、英がーディアン紙に掲載されたスロヴォイ・ジジェクの興味深い論"Liberal multiculturalism masks an old barbarism with a human face"を試訳してみました。原文は、以下でご覧になれます。(大竹秀子)

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/oct/03/immigration-policy-roma-rightwing-europe


最近起きた、フランスからのロマ、すなわちジプシーの追放は、ヨーロッパ全土で、リベラル・メディアばかりでなく、トップクラスの政治家の、そして左翼だけではない人々の抗議を引き起こした。だが、追放は実行された。しかもこれはヨーロッパの政治のより大きな氷山のほんの突端にすぎない。

1ヶ月前、銀行の重役で政治的には社会民主党に近いとみられるティロ・サラツィンの著書がドイツで大騒動を引き起こした。「ドイツ国家は脅かされている。あまりにも多くの移民が彼らの文化的アイデンティティを維持することを許しているからだ」と説いたからである。『ドイツは、自殺するのか』というタイトルの同書は圧倒的に総スカンを食ったが、引き起こされた激しい衝撃は、この本が痛いところを突いていたことを物語る。


これらの出来事は西欧および東欧の政治的空間の長期的な模様替えを背景にして見るべきだ。最近まで、大半の西欧諸国は選挙民の過半数に焦点を当てた2大政党により支配されてきた。中道右派(キリスト教民主、自由保守、人民)と中道左派(社会、社会民主)の2大政党に少数の選挙民をもつ小政党(環境、共産)が寄り添うという構造だった。

西欧ならびに東欧での最近の選挙結果をみると、これとは異なる対立が次第に出現している兆しが現れている。いまでは、通常リベラルなアジェンダ(たとえば、中絶、ゲイの権利、宗教的および民族的マイノリティに寛容)を掲げ、グローバル資本主義を支持する、中道政党一党が支配的だ。これに対する野党は、次第に強力になっている反移民ポピュリスト政党で、そのはずれには、レイシズムを公然と唱えるネオファシスト団体が位置している。最良の例はポーランドで、元共産党の消滅後、主要政党はドナルド・タスク首相の「反イデオロギー」的な中道リベラル党とカチンスキ兄弟の保守的な「キリスト教法と正義」党である。同様な傾向は、オランダ、ノルウェイ、スエーデン、ハンガリアでも見られる。なぜ、こうなったのか?

福祉国家が抱かせてくれた希望の数十年の後、財政削減を暫定として納得し、事態はまもなく正常になるという約束により持続可能にされ、我々は、危機  –  いやむしろ、あらゆる種類の緊縮政策(福祉削減、医療および教育サービスの減少、仕事をより臨時職にする)を必然的に伴う一種の緊急時の経済状態 –  が永遠に続く時代に突入している。危機が生活様式になり始めているのだ。

1990年の共産政権の崩壊後、我々は、国家権力の行使の支配的形態は非政治化された専門家による政権と利害の調整であるという新時代に入った。この種の政治に情熱を導入する唯一の方法、民衆を活発に動員する唯一の方法は、恐怖をかきたてることだ。移民への恐怖、犯罪への恐怖、神を否定する性的異常への恐怖、過剰な国家(高額課税と統制を伴う)への恐怖、生態系の大災害への恐怖、ならびにハラスメントへの恐怖(ポリティカル・コレクトネスは、リベラル版の典型的な恐怖の政治だ)を通して。

このような政治は常に、偏執的な群衆―怯えた男女のゾッとさせるような結集―に依存している。だからこそ新ミレニアムの最初の10年間のビッグイベントは、反移民政治が主流となり、それを極右の過激党につなぎ止めていたへその緒がついに切れた時に起きた。フランスからドイツまで、オーストリアからオランダまで、自分の文化的および歴史的アイデンティティへの新たな誇りにあふれた精神で、主要政党はいまや、移民はホスト社会を規定する文化的価値に順応せざるをえないゲストであると強調してはばからない。

進歩的リベラルは、もちろんこのようなポピュリスト的レイシズムに怖じ気を感じている。しかしながら、よくよく見ると、多文化の寛容と違いの尊重が、他者を適切な距離に保つという点で移民に反対する人々といかに共通しているかが、はっきりする。「他者はOKだ。彼らを尊重する。だが私の空間に入り込みすぎてはならない」とリベラルは言う。「そうなった瞬間、彼らは私にとってハラスメントになる。私はアファーマティブアクションを100%支持するが、うるさいラップミュージックに耳を傾ける気は毛頭ない」。後期資本主義社会で中心的な人権として次第に出現しているのは、ハラスメントされない権利であり、これは、他人と安全な距離を保つ権利である。殺人計画を抱くテロリストは予防のため、法の規則を免除された空白の区域であるグアンタナモに置いておくべきだ。原理主義イデオロギー論者は、憎悪を蔓延させるから、黙らせるべきだ。そのような連中は私の平安をかき乱す有害物なのだ、という論法だ。

今日の市場で、我々は悪性な特性を取り除かれた製品をどっさり目にする。カフェイン抜きのコーヒー、脂肪抜きのクリーム、アルコール抜きのビール。これらはほんの数例だ。セックス抜きのセックスとしてのバーチャルセックスだってある。戦争行為抜きの戦争としての、死傷者抜き(もちろん、我々の側の)の戦争状態というコリン・パウエルのルールはどうだろう?政治抜きの政治としての専門家政権によるアートという政治の現代的な再定義は?こうして我々は他者抜きの他者―デカフェ版他者―体験という今日の寛容なリベラル多文化主義にたどり着く。

このような中和のメカニズムは、1938年にフランスのファシスト、ロベール・ブラジャックによって考案された。彼は、自らを「穏健な」反ユダヤ主義者だとみなし、合理的な反ユダヤ主義を考案した。「我々は映画館で、ユダヤのハーフであるチャーリー・チャップリンに拍手喝采することを自らに許し、ユダヤのハーフであるプルーストを賛美し、ユダヤ人であるユーディ・メニューインに拍手を送る…我々は誰の命も奪いたくないし、大虐殺も組織したくない。だが我々はまた、本能的反ユダヤ主義のつねに予測不能の行動を妨げる最良の方法は、理にかなった反ユダヤ主義の組織化であると考える。」
これこそ、我らが政府による「移民の脅威」への対処法において作用している態度ではないのか?直接的なレイシズムを「不合理」で我々の民主的基準からみて承諾できないものとし、正当に拒否しておきながら、彼らは「理にかなった」レイシストの保護対策を是認する。そして、一部は社会民主党員でさえある今日のブラジャックは、我々に次のように告げるのだ。「我々はアフリカ系と東欧系のスポーツマン、アジア系の医師、インド系のソフトウェアプログラマーに拍手喝采することを自らに許す。我々は誰の命も奪いたくないし、大虐殺も組織したくない。だが我々はまた、予測不能の暴力的な反移民防御対策を妨げる最良の方法は、理にかなった反移民保護の組織化だと考える。」

我々の友人を無害化するというこのビジョンは、直接の野蛮から人間の顔をした野蛮への明確な移行を示唆している。それが露わにするのは汝の隣人へのキリスト教的な愛から、我々一族の野蛮な他者に対する異端者ばりの特権への退行だ。たとえキリスト教的価値の防衛という衣を着けていたとしても、それ自体がキリスト教的遺産への最大の脅威なのである。

©Hideko Otake

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